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レビュー/BT6/2002.7 視覚を超えた知覚が見る 世界のディティール われわれがこの世界をあらかじめそこにあるものとして受け取り、そのなかで生活したりものを考えたりすることができるのは、世界を構成するあまりに精妙な要素を、まえもって省略し編集することによって、そのつど経験世界を「再生」しているからにほかならない。このたえまない「世界の再生」は、アートの世界でもおおむね大前提として考えられていて、「世界の再生」それ自体に介入しようとするものは、いつの時代にあっても、きわめて稀である。 たしかに、かつて、この次元に無理矢理介入するため、アーティストの身体を使ってきわめてラディカルな実験が行われた。けれども、それゆえ「アヴァンギャルド」と呼ばれた彼らの営みと田中隆博のそれとのあいだには、大きな開きが存在する。 世界の安定した再生が必要となるのは、逆に言えば、世界がいかにたえまなく変容し続けているかということの裏返しであって、両者を通底させるのに見かけ上のラディカルさは必要ない。 世界のディティールに対し、単に「視覚的」というレベルを超えて、神経生理学的に知覚を開くことができれば、たとえミリ単位をさらに分割するような痕跡ひとつであったとしても──まさしく田中の写真作品やインスタレーションがそうであるように──目前の世界は大きく変容してしまう。 こんなことを言うからといって、彼の試みをミニマリズムと呼ぼうというのではない。むしろ、この作家は世界を、複数のパラメータから成立している機械状のアレンジメントとしてとらているかのようだ。そしてそれを、場に応じて実に細やかにモデュレートしてみせる──そう言ったほうが正確だろう。 それはどこかで、音源はいうまでもなく、電圧から結線、さらに湿度、気温、壁の材質に至るまでのすべてを、「音楽」を聞くことの原則として考えるオーディオ主義者たちの世界を思わせる。彼らの手にかかると、どんな聞き慣れた音源も、それがまったく同じであると同時に、こちらの感覚器官が変化してしまったと錯覚するくらい、新たに生成し始める。そこでは、「聞く」ことは決して、単に耳に還元されるものではない。目で聞く、肌で聞くというような比喩を厳密な意味で理解することなくして、こうした体験を説明することは困難だ。 あえて言えば、田中隆博の作品を「見る」ことは、これとよく似ている。その展示のなかでわれわれが、はたして対象を見ているのか、聞いているのか判然としなくなる瞬間が存在するのは、その意味で偶然ではない。いわば彼は、世界というオーディオ・システムの性能を、「見る」ことのためだけに、極限まで引き出そうとしている。 彼の作品を体験することは、どんなにうつろいやすく、かたちのないものであったとしても、われわれの生において、ひとつのクライマックスをなしている。
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